1892(明治25)年11月30日、堀江の海岸は、異様な興奮のうちに夜が明けていった。それは、今まで一度も見たことのない、大きな商船が堀江湾に出現していたからである。この商船こそは、イギリスのピーオー汽船会社所属のラベンナ号であった。

 午前5時前,このラベンナ号とフランスで建造され、神戸に回航途中の軍艦千島とが釣島(つるしま)海峡の興居島(ごごしま)と睦月島(むづきじま)とのほぼ中間で衝突、軍艦千島(ぐんかんちしま)は約2分間で沈没し、乗員90名のうち、溺死者(できししゃ)74名、生存者16名といった悲運なものとなった。一方、ラベンナ号は船首に亀裂(きれつ)を千島艦遭難の碑生じたものの損傷は軽く、生存者16名を収容し、堀江沖に碇(いかり)をおろした。

 ラベンナ号は衝突の際、しきりに旗や吹き流しを用いて信号を行い、また、火矢(ひや)や砲声を発して事故を知らせたといわれている。

 こうした状況の中で堀江村の人たちは、直ちに行動を開始した。浜辺の人の急報に、堀江村役場の吏員(りいん)野本岩五郎(のもといわごろう)は、門屋履徳(かどやりとく)村長の命を受け、船を出し、白鷹善四郎(しらたかぜんしろう)ほか2名と共にラベンナ号にかけつけた。しかし、言葉がまったく通じず、困惑していたが、やがて水先人北野芳兵衛(きたのよしべえ)によって事情がはっきりしてきた。 

 私設の堀江水難救済所の人たちは、救助された千島艦の生存者を堀江村長宅に移送し、衣服を与え、休養をとらせた。いずれも多少の負傷があるため、村医永井雅郎が応急手当をし、さらにかけつけてきた愛媛県立病院長谷口長雄医師の診察を受けたのち、堀江から三津浜へ海路で、その後は汽車で移送し、松山衛戍(えいじゅ)病院に入院させた。20名ちかくの人たちを送る手段は海上交通がもっとも便利なものであった。当時は、堀江〜松山間には、鉄道はもちろん馬車すらもなかった。

 一方、堀江村当局は、海岸に事務所を設け、堀江水難救済所の人たち数十名が、実に5昼夜にわたる捜索を行った。しかし、不幸にも、遺体はあがらなかったが、数百品目に及ぶ多くの浮流物品を拾得することができた。そのとき、海軍の漂流(ふりゅう)物品受領担当官として堀江に来たのが、その後の日露戦争の際、旅順港閉塞隊(りょじゅんこうへいそくたい)を指揮、退船のとき、杉野孫七兵曹長(へいそうちょう)を捜索して引き上げる途中に戦死、軍神として文部省唱歌にも歌われた、かの有名な広瀬武夫(ひろせたけお)中佐(当時は少尉)であった。翌年の1月、睦月島の漁夫河本石次郎らによって2遺体が発見され、一人は機関士伊藤房吉と判明したが、一人は遺体の腐乱状態がひどく氏名は不明であった。



 こうした千島艦遭難(そうなん)でのできごとを後世に伝えるため、1917(大正6)年1月14日、東郷平八郎元帥(とうごうへいはちろうげんすい)−日露戦争時、連合艦隊司令長官として日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破り、国民的英雄となる−の揮毫(きごう:えらい人が文字や日本画を筆でかくこと)による「千島艦遭難碑」(ちしまかんそうなんひ)が村民によって建てられた。場所は、堀江町の海岸に近い浄福寺(じょうふくじ)境内である。


その右側に、自然石の正岡子規(松山市生まれの俳人・歌人で俳句、短歌革新の道を開いた)の句碑がある。この「千島艦覆没句碑」も町民によって建てられたもので、1968(昭和43)年のことであった。正岡子規は、1892(明治25)年12月1日、日本新聞社に入社し、初出勤したとき、軍艦千島が郷里松山にほど近い沖合で沈没したことを聞き、俳句時評として「海の藻屑(もくず)」と題し、記事を掲載した。その時詠(よ)んだ句が、「もののふの河豚(ふぐ)にくはるる哀しさよ」である。このときの「哀しさよ」は、後に「悲しさよ」に改められている。