『お大師様と衛門三郎』
著作権:文殊院 転載了承済み
西暦824年の出来事です。
お大師さまは、四国霊場最後の見回りの途中、
伊予の国荏原の庄(愛媛県松山市恵原町)に、
立ち寄られました。
その時、1人の童子が、お大師さまの前に現れ、
「お大師さま、ありがたい霊場を開くといわれても
誰1人仏の道にはいられません。
ここに罪深い人が住んでおります。
改心させて来世の鑑(先達)にしてはいかがですか」、
と告げると何処となく去って行きました。
すると豪雨になり、お大師さまは徳盛寺に宿を請われました。
お大師さまが、本堂でお経を唱えておりますと
文殊菩薩さまが現れました。
先程の童子は文殊菩薩さまの化身で、
私を導き教えを下さったと
お大師さまは悟られました。
その後、徳盛寺を文殊院と呼ぶようになりました。
この村には、大庄屋で悪鬼長者と村人に恐れられている
河野衛門三郎が住んでおりました。
お大師さまは、衛門三郎の門前で托鉢の修行を、数回、
7日間行いましたが欲深い衛門三郎は、追い帰しました。
翌日の事です。腹を立てた衛門三郎は、
竹箒でお大師さまをたたくと、
手に持っていました鉄鉢に当たって八つに割れました。
すると、光明を放ちながら南の空に飛んでいきました。
南の山々を見ますと、山の中腹から雲が湧き出てきました。
不思議に思い、山に登ってみますと、八つの窪みが出来ておりました。
三鈷でご祈念しました。すると、1番目の窪みからは風が吹き、
2番目、3番目のくぼみから水が湧き出て来ました。
この水を八降山八窪弘法大師御加持水として涸れることなく、
いまも文珠院の山中に湧いています。衛門三郎には、
男の子5人と女の子3人おりました。
お大師さまをたたいた翌日、長男が熱を出して病気になりました。
いくら介抱しても、あくる日に亡くなってしまいました。
すると次男坊が病気になり翌日亡くなりました。
こんな日々が毎日続いて、八日の間に8人の子供達が
亡くなってしまいました。
衛門三郎は毎日毎日泣き暮らしておりました。
ある日、お大師さまは罪の無い子供達を不憫に思い、
山の麓に行き手に持っております錫杖で土を跳ねますと、
その夜、土が大空高く飛んで行き、お墓の上に積み重なっていきました。
(このお墓が八塚と呼ばれ、今も文殊院の境外地に
松山市の文化財に指定され残っています。)
お大師さまは、文珠院にて、衛門三郎8人の子供菩提供養の為に、
延命子育地蔵菩薩さまと自分の姿を刻み供養をしました。
又、法華経一字一石を写され、5番目の子供の塚に埋め、
子供の供養を行なって文殊院を後に旅立ちました。
ある晩のことです。衛門三郎の枕元に
「汝8人の子供が亡くなったのは、汝の罪悪が深い為に亡くなった。
一心に四国寺院を巡拝しなさい、その時私が会って汝の罪を許してあげよう、
夢々うたがってはいけません。」とお大師さまが夢枕に立たれました。
衛門三郎は子供のお位牌の前で、奥さんに、
「お大師さまに会って罪を許していただくまでは家には帰って来ません」
と別れの水盃をいたしました。
白衣に身を包み、手には手っ甲、足には脚絆、
頭には魔除けの笠をかぶり、右の手に金剛杖を持って
我が家を後に旅立ちました。
この姿が、本来のお遍路さんの姿です。
衛門三郎は、文殊院にお大師さまを訪ねてきましたが、
旅立ったあとでした。
紙に自分の住所、氏名、年月日を書き、お大師さまがこの札を見ると
衛門三郎がお参りした事がわかりますようにと、お札をお堂に張りました。
(このお札を「せば札」といい、現在のお納札のいわれです。)
ある日、野宿をしていますと乞食が現れて、年貢が払えなかったために
家、田畑をとって追い出され、こういう姿になったと、罵られ叩かれますが、
ただ謝るばかりです。(改心の姿であります。)
雨にも負けず、風にも、雪にも負けず難行苦行の毎日です。
やがて、8年の歳月がたちました。その間、歩き続けて
四国寺院を20回しか巡る事ができませんでした。それでも
お大師さまに巡り会えませんでした。
西暦832年(閏年)、徳島の切幡寺から逆に巡ると
お大師さまに会えると思い逆回りを始めました。
自分の家の前に帰って来た時、茶店で一休みしていますと、
子供のお墓から煙が立ちのぼっておりました。
茶店の婆さんに尋ねますと、衛門三郎に衛門三郎さんの
お話をして聞かせました。「奥さんは家、田畑を村人に施して、
三番目の塚に小屋を建て、子供の供養をしながら、
ご主人の帰りを待っておりましたが、ふとした病がもとで亡くなって
村人が寄って野辺の送りをする所です」といわれました。
家に帰って一目妻に会って別れをしたいのですが、
「ここで帰ると今までの苦労が無駄になる」と心に言い聞かせ、
その夜お墓の前で手を合せて村人に見られないように旅立ちました。
徳島県の焼山寺の麓へ差し掛かると足腰立たず、倒れてしまいました。
ここまで、一心にお大師さまをたよりとして巡拝しましたがあえなかった、
このまま死んで行かなければならないのかと嘆き悲しんでおりました。
「衛門三郎殿、衛門三郎殿」という声に目を見開きますと、
8年前に叩いたお大師さまが立っておられました。
お大師さまは、「よくここまで歩んで来ましたね、今までの罪はもう無くなっています。
しかし、貴殿の生命はもう尽きようとしています。何か願い事が有るならば
1つだけ、叶えてあげましょう」と言われました。
衛門三郎は「できる事でしたら、一国のお殿さまの嫡男に
生まれ変わらして下さい」とたのみました。
お大師さまが、小石に「衛門三郎再来」と書き手に握らせますと、
衛門三郎は亡くなりました。
お大師さまは、衛門三郎が持っていました金剛杖をお墓の上に逆に立て
ご供養いたしました。後に、この杖から芽が出てきて大きな杉の木になりました。
(現在杖杉庵に2代目の杉の木が生えています。)
お大師さまは、文殊院に衛門三郎のお位牌を持って来られ、
子供のお位牌と一緒に本堂で衛門三郎家の悪い先祖の因縁を
切るために、因縁切りの法を権修しました。
しばらくたった、ある日のことです。
愛媛、松山の道後に昔、湯月城がありました。
河野伊予守左右衛門介越智息利候の奥さんが妊娠し、
玉のような男の子が誕生しました。名前を、息方君と名付けました。
若君の右の手が、いくらたっても開きません。
若君3歳の春の事です。桜の花見の席で南に(文殊院)向かって
両手を合せ(合掌)、南無大師遍照金剛とさんべんお唱えになりました。
すると、右の手がぱっと開き、その手の中から小さな玉の石が出て来ました。
家臣が拾って見ますと、「衛門三郎再来」と書かれていました。
その石を安養寺へ持って行って納めました。後に、安養寺を石手寺と改めました。
若君は、衛門三郎の生い立ちを聞きました。そして、民、百姓に喜ばれる
政ごと(政治)をしました。















